メジロアルダンの物語
ガラスの脚と言われるメジロアルダンですが
実物の競走馬と比べてウマ娘メジロアルダンの物語を調べていきましょう。
メジロアルダンは母が姉メジロラモーヌと同じメジロヒリュウの子である。
アドマイヤベガは出生時、死産した双子の話があるがアルダンにも同じ話がある。
そのせいか虚弱体質だったようで、デビューは4歳をぎてからだった。
「今この瞬間に命を賭す、私自身の生きた軌跡を残したい、私を壊す覚悟はありますか」などと死亡フラグを立てているのもこの辺の話が元ネタか?このせいかゲームでの育成難易度は高くすぐ練習ベタを引き起こす。
ただデビュー後は順調でNHK杯に2着に入り、わずか3か月で日本ダービーに出れることになった。だがその東京優駿、最後の100Mで2位につけていたサクラチヨノオーを
突き放しアルダンの勝利に見えたその瞬間!根性ウマ娘サクラチヨノオーがド根性で
刺し返す。結果はアルダンの首差の2着、信じられない敗戦であった。
レコードをだして勝ったサクラチヨノオーを褒め称えるべきレースであろうが、
メジロ側には痛い敗戦だった。
うんチヨちゃんがんばったね、前年に亡くなったサクラスターオーも見ているよ。
マルゼン父ちゃんもトウコウ兄ちゃんもやったぜ!見てくれたか!
その後アルダンは骨折していたことが判明し1年の長期休養に入る。お嬢様~!
明けて1989年手始めのオープン戦を貫録勝ちした後は高松宮杯でコースレコードを出し安田記念勝者バンブーメモリをガラスの重戦車と呼ばれた豪快な走りで圧勝!
だがその後はオグリキャップ、イナリワン、スーパークリークなどの厚い壁に阻まれ
秋天皇賞後に屈腱炎を発症しまたも長期入院することになった。お嬢様~!!
明けて1990年秋オールカマーで復帰したが4着、そして問題の秋天皇賞がやってくる。
それまで主戦騎手を務めていた岡部がレース直前になってヤエノムテキに乗ると言い出した。「ヤエノムテキに魅力を感じて」ということだったが、レース前になっての騎手交代はあまりないので、この件でメジロ側は大騒ぎになる。
アルダンにはメジロライアンの主戦騎手を務めていた横山が急きょ騎乗し
ヤエノムテキとの因縁の対決がはじまる。
この話ウマ娘においてはかなりボカシてあるが(そりゃそうか・・ヤエノがアルダンを守ろうとしたりして確執を感じさせないようにしてる。ゴルシもジョーダンと仲良さげにやってるしな)
そして運命の秋天、メジロ陣営にとって意地でも負けられない戦いがはじまる。
第4コーナーを回り直線で一気に仕掛けたヤエノムテキに猛追!上がってきた
バンブーメモリも抜き去り1:58.2のコースレコードをだすもアタマの差で2着・・
あと一歩とどきませんでした。
その後の有馬ではオグリキャップの復活により大敗(つまりクリオグリ)
翌年には屈腱炎を再び発症し長期入院へ・・
秋ごろには復帰したものの目立った成績もなくジャパンカップの14着という
寂しい結果を最後に引退しました。
ウマ娘のアルダンは最後に何を思うのでしょうか?
引退後は繁殖馬生活にはいり中国へ渡る。アルダンの子「無敵」は中国において大活躍しており1400mから8000mの全種目において勝利を飾ったそうです。
てか8000mってなんだよ!60頭立てとかもうわけわからんのですけどww
しかも騎手がいなくてもゴールすれば勝らしくて重量減らすために最後の直線で騎手が飛び降りるというカオスな展開ww(後続馬に轢かれるらしい)
アルダンは中国においてはかなり大事にされていたみたいだけど、安い種付け料の
おかげで連日種馬生活という天国なんだか地獄なんだかよくわからん生活の後、
種付け中に心臓発作を起こし死亡。(腹上死?)享年17歳でした。
ここまで書くと幸せだったのかよくわからない生だったかもしれないですね。
レース生活の大半を故障と治療にあて、脂ののった時期にはオグリやイナリ、
ヤエノムテキやクリークなどの強敵に囲まれ勝ち星は残せなかったけど
ウマ娘のアルダンには幸せな人生をおくって欲しいですね。
「永遠の時を刻みましょう」って
かなりトレーナーラブ勢のメジロアルダンの物語でした。
それではまた。